このデザイン・ストーリーはジョン・レッドファーンの物語ですが、中でもレッド・ファーンとワースの比較に注目しています。二人は共にオートクチュールを生み出したとされる英国人で、両者が築き上げた強靭なる帝国が肩を並べていた1895年に共にその生涯を終えました。
ワースの排他性とレッドファーンの遍在性は対照的ですが、二人の経歴には多くの共通点が見られます。両者とも服飾用品や布地を扱うつつましい商いから身を起こし、ファッション業界を今日知られるような業界に作り変えました。自らを「審美眼の最高権威者」と自負し、拠点をおいたパリから富裕層顧客を相手に活動していたワースに対し、レッドファーンはイギリス全土を定期的にくまなく回り、1852年までにはすでに2つの大陸でいくつかのファッション・ハウスを展開していました。
ワースは一切宣伝をせず、すべてを口コミに頼っていました。レッドファーンは広く宣伝を行い、中でも当時最も影響力があるとされていたファッション誌「ザ・クィーン」に広告を載せていました。レッドファーンはスポーツウェアやレジャーウェアを考案し、ワースはファッション・ブランドというものを導入しました。ワースはイヴニングウェアに専念する一方、レッドファーンは、イヴニングウェアをもレパートリーに取り入れた日中着(ディウェア)の幅広いコレクションにより持続的な成功を収めました。19世紀にはレッドファーンがファッションにおける主力勢力として優勢を極め、ヴィクトリア女王も彼の顧客となり、「レッドファーン」を着るということ自体が世界の人々の間で話題となりました。両者ともファッションに永遠の影響力を及ぼしました。
「ザ・クィーン」誌に掲載されたレッドファーンが描いた服のハッチング手法をヒントにしたものです。庭のパンジーを鉛筆で手描きした後にロットリングペンを使ってリピート柄にされ、フェルト・ペンで部分的に菜食して制作された柄です。
レッドファーンの服のスケッチ画に再三登場するモチーフの一つをヒントにした柄です。手描きされた後に、リピート柄としてグワッシュでハンド・ペイントされました。
ドレスのバック・スタイルに巣嵐いレースをあしらったレッドファーンのバラのドレスから着想を得ています。レッドファーンが愛する花々はドレスにもイラストにも登場します。この柄は、水彩画用紙一面に抽象的にバラを自由にスケッチした後に、ワックス・クレヨンでタータン柄を描き、レッドファーンで有名になった乗馬服やスポーツウェアのツィードを表し、さらに全体を黒で塗りました。
その下準備が整った地に、バラの柄をより整然としたリピート柄に手描きし、ワックス・クレヨンからバラの部分をハッチングした後に黒の地色をデジタル処理で取り除きました。その結果、ワックス部分と絵具部分画が生み出す奥行きにより、ドレスのバック・スタイルの立体感を際立たせています。
当時レッドファーンやワース、さらにはピンガットといったデザイナーたちがオートクチュールで使っていたペイズリー柄に、モダンな独自の解釈を加えたものです。ペイズリー柄は総柄として使われるだけでなく部分柄としてもしばしば仕様されていました。デザインは細いライナーを使って手描きされました。
レッドファーンがファッションの世界に導入したジャケットに一般的にあしらわれていた服のトリムや軍服を飾るブロケードから着想を得ています。この柄は加工糸を使った布(ラップ)とトリムを融合させたもので、セントラル・セント・マーティンズ校の学生タスリマ・サルタナがつくり上げたものです。
素材の質感、色と柄を通してアイディアを表現するタスリマは、プルミエ・ヴィジョンでテックスプリントの「カラー賞」を受賞しました。